PIKANDA PART2
2015.12.12-13 丹沢
雪不足だから、というわけではないけれど、まだスタッドレスに履き替えていない車を走らせて丹沢に行ってきました。
Yuさん企画で、Mokaさんと3人で大倉から入山です。2日間で三ノ塔、塔ノ岳、丹沢山、蛭ヶ岳山荘泊、檜洞丸、と主脈を縦走して西丹沢に下山しました。
土曜は思ったより良い天気で、塔ノ岳からは伊豆半島、箱根、富士山、相模湾、江ノ島、そして三浦半島まで素晴らしいパノラマです。
朝6時半から17kmほど歩いて、蛭ヶ岳には15時半ころに到着。翌朝4時半に出発し、11km歩いて西丹沢自然教室を9時50分に出るバスにギリギリ間に合いました。あとは中川で一旦バスを下りて温泉に入り、1時間後にやってくる次のバスに乗って新松田駅、そして渋沢から大倉に戻って車を回収しました。
丹沢主脈縦走は思った以上にハードな行程でしたが、お腹いっぱいという感じで楽しめました。
三ノ塔尾根で明るくなりました。

塔ノ岳への稜線を辿ります。

塔ノ岳から、相模湾、江ノ島、三浦半島方面です。

こちらは相模原方面でしょうか。

箱根から噴煙?が絶えず上がっている様に見えますがただの雲かもしれません。ヘリコプターがひっきりなしに飛んでいきます。

富士山です。ちょっと中層に雲がかかっています。しばらくすると見えなくなってしまいました。

そして最高峰へ。

翌日は早立ちで、日がのぼっても雨が降り続き、バスに間に合うかもぎりぎりだったため、写真を撮る余裕は有りませんでした。
Yuさん企画で、Mokaさんと3人で大倉から入山です。2日間で三ノ塔、塔ノ岳、丹沢山、蛭ヶ岳山荘泊、檜洞丸、と主脈を縦走して西丹沢に下山しました。
土曜は思ったより良い天気で、塔ノ岳からは伊豆半島、箱根、富士山、相模湾、江ノ島、そして三浦半島まで素晴らしいパノラマです。
朝6時半から17kmほど歩いて、蛭ヶ岳には15時半ころに到着。翌朝4時半に出発し、11km歩いて西丹沢自然教室を9時50分に出るバスにギリギリ間に合いました。あとは中川で一旦バスを下りて温泉に入り、1時間後にやってくる次のバスに乗って新松田駅、そして渋沢から大倉に戻って車を回収しました。
丹沢主脈縦走は思った以上にハードな行程でしたが、お腹いっぱいという感じで楽しめました。
三ノ塔尾根で明るくなりました。

塔ノ岳への稜線を辿ります。

塔ノ岳から、相模湾、江ノ島、三浦半島方面です。

こちらは相模原方面でしょうか。

箱根から噴煙?が絶えず上がっている様に見えますがただの雲かもしれません。ヘリコプターがひっきりなしに飛んでいきます。

富士山です。ちょっと中層に雲がかかっています。しばらくすると見えなくなってしまいました。

そして最高峰へ。

翌日は早立ちで、日がのぼっても雨が降り続き、バスに間に合うかもぎりぎりだったため、写真を撮る余裕は有りませんでした。
2015.8.8 男体山
薄暗い山道を登っていく途中、ところどころで下山の人とすれ違います。前に人影が見えて、またそんな擦れ違いの一つかなと思いながら「こんにちは」と声をかけました。白いTシャツを着た若い女の子のようですが、頭上の木の葉の隙間にのぞく空を見上げたまま、早口で「こんにちは」と返されて、顔まではよく見えませんでした。通り過ぎながらちらっと見ても、こちらのほうは見向きもせず立ったまま空を仰いでいます。登りなのか下りなのかよくわからない感じで、ただそこに立っていただけでした。
怪訝に思いながらもさらに15分ほど登って行くと、5人くらいの家族連れが立ち止まっています。また「こんにちは」と挨拶しながら抜きにかかると、その中の1人が突然こちらを向いて話しかけてきました。よくみると白人の女の子です。
「すみなせん。私と同じ服を着た女の子を見ませんでしたか?」
「ああ、あの子、娘さんですか?」
とっさのことで相手の年齢をよく考えずに聞き返していました。デミ・ムーア似の女の子はちょっと苦笑いしながら、
「いや妹です・・・。」
「ああ、ごめんなさい。ちょっと疲れているように見えたけれど。それにしても大丈夫なの、1人で?」
「多分・・・。」
家族連れの残りのメンバーは日本人の一家という感じで、お父さんお母さん、それに小学生か中学性くらいの女の子2人で、私達のやりとりをじっと見ていました。
どういういきさつで高校生くらいの白人姉妹がこの一家と男体山に登ることになったのかは不明ですが、これほど離れた場所に女の子を1人だけ残したまま登山を続けている状況はちょっと普通ではありません。
「もしかしたら・・・あなたはもう下りたほうがいいかも知れないね。」
お姉さんに告げると、パッと表情が明るくなって、すぐにでも降りて行こうとするところでした。途中の山道に置いてきた妹のことを心の中で案じつつずっと登って来ていたのでしょうか。
それにしても、このグループのリーダーは日本人一家のお父さんと見るべきでしょうが、どういう考えでこの姉妹を分離して1人を残してきたのでしょう。
途中で嫌になって1人だけ拗ねて、「もう登らない」と言って別れたのかもしれませんが・・・。異国の山の中に若い女の子が1人で取り残されたらどれほど心細い気持ちになったことか。
そこからまた2時間ほども掛かって登頂してからしばらくの時間を山頂で過ごし、下り始めて10分くらいしたところでさっきの一家が登ってくるのと擦れ違いました。その中に先ほどのお姉さんはいませんでした。中禅寺湖畔の登山口まで戻っても2人の姉妹の姿はどこにもありませんでしたが、無事に帰ったのでしょう。自分はその結果に満足でした。
正門から入って社務所に500円の入山料を払います。

さらに登山口の門をくぐります。

結構な急登をこなして山頂です。



一番奥に奥宮の祠でした。

残念ながら中禅寺湖はガスの切れ間にわずかに覗く程度でした。

山頂直下のガレを下るとあとは樹林帯の岩だらけの道を下ります。標高差1200mで、登り3時間下り2時間ほどですが、結構ハードな山でした。

怪訝に思いながらもさらに15分ほど登って行くと、5人くらいの家族連れが立ち止まっています。また「こんにちは」と挨拶しながら抜きにかかると、その中の1人が突然こちらを向いて話しかけてきました。よくみると白人の女の子です。
「すみなせん。私と同じ服を着た女の子を見ませんでしたか?」
「ああ、あの子、娘さんですか?」
とっさのことで相手の年齢をよく考えずに聞き返していました。デミ・ムーア似の女の子はちょっと苦笑いしながら、
「いや妹です・・・。」
「ああ、ごめんなさい。ちょっと疲れているように見えたけれど。それにしても大丈夫なの、1人で?」
「多分・・・。」
家族連れの残りのメンバーは日本人の一家という感じで、お父さんお母さん、それに小学生か中学性くらいの女の子2人で、私達のやりとりをじっと見ていました。
どういういきさつで高校生くらいの白人姉妹がこの一家と男体山に登ることになったのかは不明ですが、これほど離れた場所に女の子を1人だけ残したまま登山を続けている状況はちょっと普通ではありません。
「もしかしたら・・・あなたはもう下りたほうがいいかも知れないね。」
お姉さんに告げると、パッと表情が明るくなって、すぐにでも降りて行こうとするところでした。途中の山道に置いてきた妹のことを心の中で案じつつずっと登って来ていたのでしょうか。
それにしても、このグループのリーダーは日本人一家のお父さんと見るべきでしょうが、どういう考えでこの姉妹を分離して1人を残してきたのでしょう。
途中で嫌になって1人だけ拗ねて、「もう登らない」と言って別れたのかもしれませんが・・・。異国の山の中に若い女の子が1人で取り残されたらどれほど心細い気持ちになったことか。
そこからまた2時間ほども掛かって登頂してからしばらくの時間を山頂で過ごし、下り始めて10分くらいしたところでさっきの一家が登ってくるのと擦れ違いました。その中に先ほどのお姉さんはいませんでした。中禅寺湖畔の登山口まで戻っても2人の姉妹の姿はどこにもありませんでしたが、無事に帰ったのでしょう。自分はその結果に満足でした。
正門から入って社務所に500円の入山料を払います。

さらに登山口の門をくぐります。

結構な急登をこなして山頂です。



一番奥に奥宮の祠でした。

残念ながら中禅寺湖はガスの切れ間にわずかに覗く程度でした。

山頂直下のガレを下るとあとは樹林帯の岩だらけの道を下ります。標高差1200mで、登り3時間下り2時間ほどですが、結構ハードな山でした。

2014.9.28 日光白根山
クルマの突然死にて9月3連休は潰れてしまいましたが、ようやく代わりが手に入ったので出かけます。
奥さまでも登れる乗鞍に行こうと思っていたところに御嶽の噴火。昨年お参りした白川権現さんもお首がどこかに飛んでしまったとかで、ひどい有様のようです。巻き込まれた方には本当にお気の毒です。タイミングが違えば命を落としたのは自分だったかもしれません。心からご冥福をお祈りします。
2013/5/10の御嶽山頂の白川権現さん。

山頂から雪の消えた八丁ダルミを見下ろしました。右が火口、奥は王滝奥の院。

だからというわけではありませんが、行く先は比較的近い日光白根山ということになりました。思ったより紅葉が進んでいて、とてもいい雰囲気です。久しぶりに山登りをした奥さまは途中で靴擦れを起こして泣きながら登っています。無理なら引き返そうと思ったんですが、痛み止めを飲みつつ根性で山頂まで登りました。犬やらツアーやら大混乱の狭い山頂でしたが、とりあえず奥さまのご機嫌も回復しました。あとは木洩れ日の差す林を歩いてロープウェイで帰還です。水出しコーヒーが美味しい日光白根山でした。
奥さまにはロープウェイが必須です。

赤いのはナナカマドです。

急登をこなしていきます。

やがて森林限界をこえて砂礫の道へ。

超軽量ザックに荷物は全く入っていないのですが、泣きが入っています。

狭い山頂が人であふれかえっていて、記念撮影さえも順番待ちです。

奥さまは少し運動したほうがいいようです。

男体山と戦場ヶ原、中禅寺湖です。ちょっと霞んでますが、富士山、八ヶ岳、北アルプスまで見えてました。御嶽の噴煙までは見えませんでしたが。

色がついた景色のなかを下っていきました。


満面の笑みです。達成感って大事ですね。

奥さまでも登れる乗鞍に行こうと思っていたところに御嶽の噴火。昨年お参りした白川権現さんもお首がどこかに飛んでしまったとかで、ひどい有様のようです。巻き込まれた方には本当にお気の毒です。タイミングが違えば命を落としたのは自分だったかもしれません。心からご冥福をお祈りします。
2013/5/10の御嶽山頂の白川権現さん。

山頂から雪の消えた八丁ダルミを見下ろしました。右が火口、奥は王滝奥の院。

だからというわけではありませんが、行く先は比較的近い日光白根山ということになりました。思ったより紅葉が進んでいて、とてもいい雰囲気です。久しぶりに山登りをした奥さまは途中で靴擦れを起こして泣きながら登っています。無理なら引き返そうと思ったんですが、痛み止めを飲みつつ根性で山頂まで登りました。犬やらツアーやら大混乱の狭い山頂でしたが、とりあえず奥さまのご機嫌も回復しました。あとは木洩れ日の差す林を歩いてロープウェイで帰還です。水出しコーヒーが美味しい日光白根山でした。
奥さまにはロープウェイが必須です。

赤いのはナナカマドです。

急登をこなしていきます。

やがて森林限界をこえて砂礫の道へ。

超軽量ザックに荷物は全く入っていないのですが、泣きが入っています。

狭い山頂が人であふれかえっていて、記念撮影さえも順番待ちです。

奥さまは少し運動したほうがいいようです。

男体山と戦場ヶ原、中禅寺湖です。ちょっと霞んでますが、富士山、八ヶ岳、北アルプスまで見えてました。御嶽の噴煙までは見えませんでしたが。

色がついた景色のなかを下っていきました。


満面の笑みです。達成感って大事ですね。

2012.9.8-9 越後駒ヶ岳 (枝折峠から往復)
どこでもいいから山の上で一晩過ごしたい気分。
この週末は予報のいい北海道が最有力候補だったけれど、金曜夜の「はまなす」に連絡する新幹線に乗れずに没となってしまった。結局行ったことのない山の中から越後駒に予定変更。22時30分、仙台宮城ICから高速に入った。
会津坂下で下道に降りたところで睡魔に襲われ朝6時まで車中で仮眠。明るくなってから延々と只見川沿いを走り六十里越をする。途中、小出のコンビニで買い物をしたり国道の工事で待たされたりしながら、午前10時過ぎにようやく枝折峠の登山口に着いた。
思いの外天気が良くて登山道は灼熱地獄。こんな暑い日に登山なんかするもんじゃないと思いつつも、なんとか清潔な駒の小屋へ到着。1ヵ月も山からご無沙汰で完全に身体がなまってしまっていた。
登り始めてすぐ、観音様にあいさつしていく。山頂は遠い・・・。

風も樹林もなく、容赦なく太陽の照りつける登山道を上っていく。暑すぎて大量に発汗。めまいがする。

午後になって雲が出てくれたおかげで、少し元気になって小屋に到着。心配したカミナリは大丈夫だった。

空身で山頂へ。

鐘を鳴らしながら山頂に到達。

小屋に戻ってから管理費2000円を払って台帳に名前を記入する。テントも2つ張ってあって幕営も可能だったことを知った。単独の3名とツアー2グループで合計20人ほどが小屋泊まりであったが、希望通り、静かな山の夜を過ごすことができたのだった。
翌朝5時前から小屋前で食事の準備。山際が明るくなってくる。

日の出は5時20分。登山道の尾根を朝日が照らす。



出発は5時50分。予報が外れて今日もいい天気になりそう。暑くなる前に下りてしまいたい。



最後の明神峠付近から振り返る。結局朝からもうカンカン照りとなってしまい、身体から塩を吹きながらの下山となった。

9/8 8.2km
10:20 1065m 枝折峠
11:40 1285m 道行山
12:25 1378m 小倉山
14:40 1875m 駒の小屋
15:00 2003m 山頂
15:25 1875m 駒の小屋
9/9 7.2km
5:50 1875m 駒の小屋
7:04 1378m 小倉山
7:37 1285m 道行山
8:40 1065m 枝折峠


この週末は予報のいい北海道が最有力候補だったけれど、金曜夜の「はまなす」に連絡する新幹線に乗れずに没となってしまった。結局行ったことのない山の中から越後駒に予定変更。22時30分、仙台宮城ICから高速に入った。
会津坂下で下道に降りたところで睡魔に襲われ朝6時まで車中で仮眠。明るくなってから延々と只見川沿いを走り六十里越をする。途中、小出のコンビニで買い物をしたり国道の工事で待たされたりしながら、午前10時過ぎにようやく枝折峠の登山口に着いた。
思いの外天気が良くて登山道は灼熱地獄。こんな暑い日に登山なんかするもんじゃないと思いつつも、なんとか清潔な駒の小屋へ到着。1ヵ月も山からご無沙汰で完全に身体がなまってしまっていた。
登り始めてすぐ、観音様にあいさつしていく。山頂は遠い・・・。

風も樹林もなく、容赦なく太陽の照りつける登山道を上っていく。暑すぎて大量に発汗。めまいがする。

午後になって雲が出てくれたおかげで、少し元気になって小屋に到着。心配したカミナリは大丈夫だった。

空身で山頂へ。

鐘を鳴らしながら山頂に到達。

小屋に戻ってから管理費2000円を払って台帳に名前を記入する。テントも2つ張ってあって幕営も可能だったことを知った。単独の3名とツアー2グループで合計20人ほどが小屋泊まりであったが、希望通り、静かな山の夜を過ごすことができたのだった。
翌朝5時前から小屋前で食事の準備。山際が明るくなってくる。

日の出は5時20分。登山道の尾根を朝日が照らす。



出発は5時50分。予報が外れて今日もいい天気になりそう。暑くなる前に下りてしまいたい。



最後の明神峠付近から振り返る。結局朝からもうカンカン照りとなってしまい、身体から塩を吹きながらの下山となった。

9/8 8.2km
10:20 1065m 枝折峠
11:40 1285m 道行山
12:25 1378m 小倉山
14:40 1875m 駒の小屋
15:00 2003m 山頂
15:25 1875m 駒の小屋
9/9 7.2km
5:50 1875m 駒の小屋
7:04 1378m 小倉山
7:37 1285m 道行山
8:40 1065m 枝折峠


2011.9.11 三斗小屋温泉に行きたい(3) 煙草屋旅館の女将さん
テントを張って遅い昼食をとり、落ち着いた時分にひと風呂浴びに行くことにした。
露天風呂には外からショートカットしないようにと言われていたので、玄関から入って正規ルートをとる。タオルを持ってこなかったので一枚購入しようと思い、ちょうど目の前に出てきた女将さんに売りもののタオルがないかと尋ねてみた。
「ああ、テント」、と顔を憶えてくれたようで「なんだい、タオル持ってこなかったのかい。テントは可哀想だから余っているのをあげるよ。」と、小銭を出したのを受け取ろうとせずに、一枚分けてくれたのだった。わざわざビニール袋から出して手渡してくれたのは、ゴミに困らないようにとの細やかな心遣いであった。
好きこのんでテントなんだけど・・・とは言わずにありがたくこのタオルを頂戴した。それ以後、女将さんは顔を合わせると私の事を「テント」、と呼んであれやこれやと世話を焼いてくれるのだった。履き替えたサンダルまで「それじゃ小さいだろ、こっちの大きいのにしな」、と。
そして、「玄関は一晩中開けておくから夜中も入りにきなよ。星がすごいんだよ・・・。」
10人くらい動かないで静かに浸かっている露天風呂をさっと浴びて、一度目は早々に出てきた。テントに戻ってもう1杯アルコールを入れると、あっという間に眠くなってしまった。
うつらうつらしていると次第に暗くなってくる。完全に日も落ちるとしばらくの間は各部屋に明かりがついて、時折騒がしい声が響いてくる。それも夜9時の消灯時間を過ぎると急に話し声もしなくなってしまった。時折パッと空が明るくなって遠雷が低く響き、小雨がぱらついてきてテントに当たる。
浅い眠りを繰り返していると、夜中の2時頃にトイレに行きたくなって完全に目が覚めてしまった。
外をのぞくと残念ながら星の一つもない闇夜だけれど、「夜中も入りなよ」という女将さんの言葉を思い出して、トイレを借りに行くついでにもうひと風呂入ることにした。
ヘッドランプを点けて闇の中を宿の玄関に向かう。女将さんの言った通り鍵は掛けられていなかった。
靴を脱いで廊下に上がると、障子を閉められた部屋の前にちょこんと小さな履き物が1人分だけ揃えておかれていた。そこで寝ているであろう人を起こさないように出来るだけそっと露天風呂へと抜ける。
湯船に浸かってヘッドランプを消すと、漆黒の中を流れ落ちる湯の音と秋の虫の声しかしない。女将さんの言うとおり、良く晴れた新月の夜にはきっと素晴らしい体験が出来るのであろう。
いつまでも入っていたいような気がしたけれど、ほどよいところで湯から上がり、そっとテントに戻った。
翌朝5時すぎ、まだ薄暗い中をテントを畳んで隠居倉へと登り始めた。朝食の準備で忙しいであろう女将さんには顔を合わせずに宿を後にした。
お世話になったお礼をいうために、今度は、星の綺麗な夜を狙って訪れてみようと思う。
(完)
消灯前の煙草屋旅館

翌日はガスの中を三本槍岳、朝日岳と巡って下山







露天風呂には外からショートカットしないようにと言われていたので、玄関から入って正規ルートをとる。タオルを持ってこなかったので一枚購入しようと思い、ちょうど目の前に出てきた女将さんに売りもののタオルがないかと尋ねてみた。
「ああ、テント」、と顔を憶えてくれたようで「なんだい、タオル持ってこなかったのかい。テントは可哀想だから余っているのをあげるよ。」と、小銭を出したのを受け取ろうとせずに、一枚分けてくれたのだった。わざわざビニール袋から出して手渡してくれたのは、ゴミに困らないようにとの細やかな心遣いであった。
好きこのんでテントなんだけど・・・とは言わずにありがたくこのタオルを頂戴した。それ以後、女将さんは顔を合わせると私の事を「テント」、と呼んであれやこれやと世話を焼いてくれるのだった。履き替えたサンダルまで「それじゃ小さいだろ、こっちの大きいのにしな」、と。
そして、「玄関は一晩中開けておくから夜中も入りにきなよ。星がすごいんだよ・・・。」
10人くらい動かないで静かに浸かっている露天風呂をさっと浴びて、一度目は早々に出てきた。テントに戻ってもう1杯アルコールを入れると、あっという間に眠くなってしまった。
うつらうつらしていると次第に暗くなってくる。完全に日も落ちるとしばらくの間は各部屋に明かりがついて、時折騒がしい声が響いてくる。それも夜9時の消灯時間を過ぎると急に話し声もしなくなってしまった。時折パッと空が明るくなって遠雷が低く響き、小雨がぱらついてきてテントに当たる。
浅い眠りを繰り返していると、夜中の2時頃にトイレに行きたくなって完全に目が覚めてしまった。
外をのぞくと残念ながら星の一つもない闇夜だけれど、「夜中も入りなよ」という女将さんの言葉を思い出して、トイレを借りに行くついでにもうひと風呂入ることにした。
ヘッドランプを点けて闇の中を宿の玄関に向かう。女将さんの言った通り鍵は掛けられていなかった。
靴を脱いで廊下に上がると、障子を閉められた部屋の前にちょこんと小さな履き物が1人分だけ揃えておかれていた。そこで寝ているであろう人を起こさないように出来るだけそっと露天風呂へと抜ける。
湯船に浸かってヘッドランプを消すと、漆黒の中を流れ落ちる湯の音と秋の虫の声しかしない。女将さんの言うとおり、良く晴れた新月の夜にはきっと素晴らしい体験が出来るのであろう。
いつまでも入っていたいような気がしたけれど、ほどよいところで湯から上がり、そっとテントに戻った。
翌朝5時すぎ、まだ薄暗い中をテントを畳んで隠居倉へと登り始めた。朝食の準備で忙しいであろう女将さんには顔を合わせずに宿を後にした。
お世話になったお礼をいうために、今度は、星の綺麗な夜を狙って訪れてみようと思う。
(完)
消灯前の煙草屋旅館

翌日はガスの中を三本槍岳、朝日岳と巡って下山







2011.9.10 三斗小屋温泉に行きたい(2) 煙草屋旅館のテン場
ロープウェイを使って昼前に那須・茶臼岳に上がると風もなく、沢山の人が旧火口を周回している。そこから30分ほどで峰の茶屋に下りると、ここでも多くの人が思い思いに休憩を取っていた。
気温が上がって入道雲が出てきて午後には雷が鳴りだしそうな気配。自然に足は三斗小屋温泉に下る谷道に向かった。最初は急だった道もやがて緩やかになり、木漏れ日の中の苔むした登山道は茶臼岳や峰の茶屋の喧噪が嘘のように静かだ。
斜面から勢いよく噴き出す延命水の水場を過ぎると幅のある広い道になり、思ったよりあっけなく三斗小屋温泉に着いてしまった。
大峠のほうから歩いてきた若い男女と前後して煙草屋旅館の前に立つ。彼らが先に女将さんとやりとりしている間、中に入らずに待っていた。女将さんがこちらに顔を向けて目が合ったところで軽く会釈して玄関に入った。
テントを張らせて欲しいことを話して、風呂やトイレを使わせてもらえるかどうか念を押してみると、
「ああいいよ。1500円。露天風呂も24時間入っていいし、中のトイレも夜中でも自由に使っていいよ。」と、とても気っぷのいい女将さんなのであった。
先の若い2人のうちの男のほうが私と女将さんのやりとりを聞いて、自分達もテントを持ってくればよかったとしきりに言うので、連れの女性は少し不機嫌そうになってしまった。旅館のほうのその日の宿賃は1泊2食8500円とのことであった。
三斗小屋温泉の2軒の宿は、素通りする登山者にはかなり素っ気なくて、日帰り入浴はやっていないしトイレも自由には使わせてくれない。だから、テント泊では風呂やトイレに制限があるかもとちょっと心配していたのだが、そんな心配は全く無用であった。
「煙草屋旅館第2別館」の前に3張りほど設営可能なスペースがあり、谷側は生け垣のようになっていて展望はないけれど、丹念に石を除いてきれいに整地されている。その上に短い草が生えていてテントを張る場所としては申し分ない。
那須の山中で幕営指定されている場所はどこにも無いのだけれど、この宿の敷地内に限ってテント泊が可能だということを知ってわざわざ担いできたのだった。自分のスペースが無くならないかと心配して急いで谷を下りてきたのだけれど、結局その日の幕営者は自分だけであったので、きれいなテン場の真ん中に張らせてもらった。
週末とあって宿のほうには泊まり客が次々と到着して、夕食の時間を知らせる名物のドラが鳴るまでに20人以上は投宿したようであった。
(つづく)
茶臼岳山頂

茶臼岳より噴気口を見下ろす

茶臼岳より峰の茶屋

峰の茶屋より三斗小屋温泉へ


なにはともあれ、缶ビールを1本買って飲みながら宿の敷地内にテントを張る。

(3)へ
気温が上がって入道雲が出てきて午後には雷が鳴りだしそうな気配。自然に足は三斗小屋温泉に下る谷道に向かった。最初は急だった道もやがて緩やかになり、木漏れ日の中の苔むした登山道は茶臼岳や峰の茶屋の喧噪が嘘のように静かだ。
斜面から勢いよく噴き出す延命水の水場を過ぎると幅のある広い道になり、思ったよりあっけなく三斗小屋温泉に着いてしまった。
大峠のほうから歩いてきた若い男女と前後して煙草屋旅館の前に立つ。彼らが先に女将さんとやりとりしている間、中に入らずに待っていた。女将さんがこちらに顔を向けて目が合ったところで軽く会釈して玄関に入った。
テントを張らせて欲しいことを話して、風呂やトイレを使わせてもらえるかどうか念を押してみると、
「ああいいよ。1500円。露天風呂も24時間入っていいし、中のトイレも夜中でも自由に使っていいよ。」と、とても気っぷのいい女将さんなのであった。
先の若い2人のうちの男のほうが私と女将さんのやりとりを聞いて、自分達もテントを持ってくればよかったとしきりに言うので、連れの女性は少し不機嫌そうになってしまった。旅館のほうのその日の宿賃は1泊2食8500円とのことであった。
三斗小屋温泉の2軒の宿は、素通りする登山者にはかなり素っ気なくて、日帰り入浴はやっていないしトイレも自由には使わせてくれない。だから、テント泊では風呂やトイレに制限があるかもとちょっと心配していたのだが、そんな心配は全く無用であった。
「煙草屋旅館第2別館」の前に3張りほど設営可能なスペースがあり、谷側は生け垣のようになっていて展望はないけれど、丹念に石を除いてきれいに整地されている。その上に短い草が生えていてテントを張る場所としては申し分ない。
那須の山中で幕営指定されている場所はどこにも無いのだけれど、この宿の敷地内に限ってテント泊が可能だということを知ってわざわざ担いできたのだった。自分のスペースが無くならないかと心配して急いで谷を下りてきたのだけれど、結局その日の幕営者は自分だけであったので、きれいなテン場の真ん中に張らせてもらった。
週末とあって宿のほうには泊まり客が次々と到着して、夕食の時間を知らせる名物のドラが鳴るまでに20人以上は投宿したようであった。
(つづく)
茶臼岳山頂

茶臼岳より噴気口を見下ろす

茶臼岳より峰の茶屋

峰の茶屋より三斗小屋温泉へ


なにはともあれ、缶ビールを1本買って飲みながら宿の敷地内にテントを張る。

(3)へ
2011.9.10 三斗小屋温泉に行きたい(1) 今は昔の・・・

↑那須・三本槍岳から秋色に変わり始めた山の風景 2011/9/11
那須の山奥に三斗小屋温泉というところがある。
現代ではロープウェイのかかる山麓の駐車場から山道を2時間も登り下りしてようやく辿りつく場所なのだが、昔の人は会津中街道という廃れた古街道にあった同じ名前の宿場(三斗小屋宿)から東に2キロメートル、標高差で400メートルほど山道を分け入って達していた。温泉そのものは1143年の発見とのことなので、街道造営よりもはるかに歴史は古い。

もともと、栃木県の今市から会津田島に抜ける道は会津西街道と呼ばれ、藩政の頃から現在も関東と会津を結ぶ重要な街道である。その会津西街道が元禄の地震で通行不能になった際に、代替として整備されたのが今回の話の会津中街道である。
会津中街道が街道として機能したのは1695年から1704年までのわずか9年間だけであった。西街道の復旧により中街道は廃れ、現在では宿場も道もほとんどが草木に覆われてしまっている。三斗小屋温泉から北にある大峠は中街道の国境の峠で、会津藩主と越後藩主が参勤交代のために実際に通ったところだった。Machiさんのレポに出てきた大峠の地蔵は中街道を通る旅人の安全を祈念するために置かれたものなのであろう。
大峠から下野側に入って最初の宿場が三斗小屋宿である。今は朽ち果ててしまったこの宿場は、会津と下野の間の往来が無くなってからも茶臼岳への修験者や三斗小屋温泉への湯治客で行き来があった。そうした平和な時代が100年以上も続いた三斗小屋宿も、文明開化の声を聞き戊辰戦争が始まると悲劇的な歴史の舞台となってしまう。
三斗小屋宿は北上してきた官軍を迎え撃つ会津軍が駐屯していて激戦地になりすべてが焼き払われてしまう。戊辰戦争後になんとか再興したものの、やがて衰退して昭和32年にとうとう無人になってしまった。
現在、三斗小屋温泉を目指す人はほとんどが那須湯元から「峠の茶屋」の駐車場に入り、登山道を歩いて標高1730mにある「峰の茶屋」という風の強い峠を登り降りしている。古い街道を通って三斗小屋宿跡から三斗小屋温泉に向かう人などは宿の関係者以外はほとんどいない。
「峰の茶屋」を通る現代の主要なルートにしても、ある程度の登山装備が無いと夏でもそこを目指すのには躊躇するだろうし、冬は経験のある限られた人しか行くことができない。
実際、2年前(2009年)の正月に三斗小屋温泉を訪ねて行った人が峰の茶屋付近のアイスバーンで滑落死する事故があった。さらにその3ヵ月後には同じく峰の茶屋に向かって歩いていた人が茶臼岳斜面からの雪崩で亡くなっている。
そのくらい辿りつくことが困難な湯治宿のある三斗小屋温泉にいつか行ってみたいと常々思っていたのだった。
(つづく)
2軒の旅館は郵便物も配達されない僻地扱いで、冬には近付くことすら難しいのに通年営業している。

↑煙草屋旅館

↑大黒屋旅館
(2)へ