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PIKANDA PART2

2011.4.5 御礼申し上げます

週が明けると仙台市内のガソリン事情も急速に良くなってきたので、ようやく後方支援を始めることができる環境になりました。

自分も一番ひどい時期に、遠方の山スキー仲間の方々や親戚からの直接的な援助に非常に助けられました。また、多くの知人、友人から励ましなどの精神的なサポートを頂き、大変勇気づけられました。

とりあえず玉突き支援を、というわけでさらに困っているであろう牡鹿半島の友人のところに物資を運ぶことにしました。状況は日曜に聞いていたので、必要なものは大体想像がつきます。

灯油、水、ガスカートリッジ、発電機、ガソリン少々、トイレットペーパー、ラジオ、電池、などを積み込んで15時過ぎに仙台を出発。水物ばかりでえらい重量ですし、道路のいたるところで段差が出来ているので、スピードは出せません。夕方5時半過ぎに牡鹿に着きました。

行政のサポートは、牡鹿ではまだまだという感じです。
そもそも平成の大合併で石巻広域都市圏として組み込まれた捕鯨の町、ベースの石巻市の経済活動が壊滅しているので、本気で考えてもらっているという感じはしませんでした。


とりあえず、お年寄りが低体温で亡くなる、なんていう話だけはもう聞きたくありません。
電気を使わないストーブだけはどうしても手に入れることが出来ませんでしたが、手に入った灯油100Lだけでも届けようと思っていました。実際、石巻のガソリン・灯油事情はまだ週が明ける前の仙台と同様でした。


石巻では今でも全国の方の活動が続いていました。行政関係だけでも、ほんのちょっとの間に、北海道から九州に至るまでの自治体の救急車や警察車両を目にしました。


名取で津波の現場は見慣れているので、石巻を見ても何とも思わない積もりでしたが、牧山トンネルを越えて女川方面に左折すると、万石浦に至るまで国道の両脇ががれきの山です。牡鹿半島の津々浦々の漁村も完全に破壊されています。

自分の知っている美しい海岸線がことごとく破壊されている光景に、思わず涙がこぼれます。

遺体を捜索してくれていた米軍も自衛隊もそろそろ撤退ということで、浜には誰もいません。がれきの山と打ち付ける波の音だけが静かに残っているという感じでした。


持って行った物資はよろこんで受け取ってもらえました。半島先端の鮎川では東北電力の作業車が行き交っており、まもなく電気が復旧しそうということで、発電機だけは持ち帰ることにしました。

日が暮れかけて鮎川浜を後にするころ、街灯、避難所、高台の残った家々に3週間ぶりの明かりがつきました。


物見遊山で被災地に行ってはいけない、という方もいらっしゃると思いますが、私はどんな気持ちでもいいので、できるだけ大勢の方に被災地の状況、津波の爪痕を、ご自身の目で見ていただくことが必要だと思っています。

これだけの大災害、今後の復興には多顎のお金が必要です。

新しく仕事を始めるために、船を、養殖いかだを買うために、工場を稼働させるために、家を建てるために、車を買うために、当たり前の日常に戻るために、まだまだ皆様の多くのご支援が必要です。

東北地方・宮城県に住む一人として、全国の皆様のご厚情に深く感謝いたしております。これからも一層のご声援をどうかよろしくお願いします。
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2011.4.3 いつの日かまた

仙台市中心部は相変わらずガス無し、風呂無しの生活が続いていますが、物流が回復して商品はだいぶ揃ってきています。

市内に数カ所あるスーパー銭湯には、1日2000人を超える人が整理券を求めて殺到しているとの情報。

どういう訳か、都市ガスの復旧は中心部が一番後回しになっているので、飲食店やホテル、繁華街など経済活動を再開できず、かなりダメージを受けているようです。

今日は山形道を使って寒河江まで行き、そこで久しぶりにお風呂に入りガソリンを調達してきました。
これでまた1週間、車を使えそうです。仙台では未だにガソリンは簡単には手に入りません。

自分のところが安定してきて余裕が出来てきたので、さらにフロンティアの牡鹿半島で頑張っている友人に何か物資を持って行こうと、現地で今一番欲しいものは何かときいてみました。

牡鹿ではライフラインがすべて未復旧で、電気がようやく4月10日をめどに開通しそうとのこと。

避難所での最大の問題は、今は物資では無くて、トイレが処理能力を超えたことによる衛生状態の悪化のようです。排泄は新聞紙にしてゴミ袋に入れている状態と。

また、暖をとることもままならず、お年寄りが低体温症で亡くなるという事態も起きていると。

個人の支援で何とかなるというレベルをすでに超えてしまっていることは明らかでした。
しかし、孤立集落、孤立世帯を回って今も個々に支援をしている方もいるとの新聞報道もあります。

家を失って避難所にいる人ではなく、幸いにして家は残ったので避難所には行かないけれど、それゆえに食料も水も調達できない、というお年寄りが結構いるのだとか。

やり方次第では、まだまだ個人レベルでの支援が出来るかもしれません。

さて話がだいぶそれてしまいましたが、先ほどの友人の一番欲しいものはなんだったでしょう?

「強いて言えば・・・何よりも「笑い」が欲しいかな・・・。」と、日頃は楽天的で明るい彼がしみじみと語っていました。

電気もガスも水道も、ライフラインが全て寸断された状況が3週間以上も続き、とりあえず命は助かったけれど家を失い先の見通しは全く立たないとあって、避難されている方々からも笑顔が消えてしまっているのだろうと思います。

いつの日か、みんながまた笑える日が来るまで、自分なりに出来る支援を続けてゆきたい・・・。そう思っています。
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